【鍾馗前編】夢であいましょう
日に日に日照時間が減っていくと思ったら、あと1か月で冬至ですか…。早い、早すぎる。秋の夜長じゃなくなってしまう…。てゆうか寒い…。体調を崩さぬよう気を引き締めなければ…。てゆうか寒い…。
ということで、第5弾は『鍾馗』にしましょう。健康祈願したいから。
今回はどうしても長くなっちゃたので、前後編に分けてお届けします。
じゃあ、前編のはじまりはじまり~。
夜神楽で『鍾馗』が舞われるのは、『大蛇』のひとつ前、いわゆるトリ前です。
『大江山』で大興奮する→『黒塚』で一気に眠くなる→狐が出てきてちょっと起きる→結局『鍾馗』で寝る。この流れは夜神楽の鉄板。時刻はすでに明け方、午前4時頃なので寒いし眠いしつまんないし子供はだーれも見てません。
「一晩オールしたやつはすごい」という謎の子供ルールがあったんですけど、それをことごとく阻むのがこの演目。『鍾馗』の壁は厚かった。私も夜神楽でまともに見たの5回?3回?くらいしかありません。
なのにPRサイトや紹介文では「大蛇と並ぶ、これぞ石見神楽の華」って書いてある。
んーー??んー、んー?んーんんーー?(混乱)
こういう書き方するからねー、勘違いしちゃうビギナーさんが多いんですよ激怒!!オロチめっちゃ面白いからほかの演目見てみたいな!!→『鍾馗』がおススメなんだ!!見たーい!!→……うん。もういいや。ってなっちゃう人いっぱいいるんだよー!!!それで興味失っちゃう一見さんが星の数ほどいるんだよー涙!!『大江山』見てよー!!
いいですか、ビギナーのみなさん。
初めてなら『鍾馗』はやめておいた方がいい。
なぜかというと、『鍾馗』の良さは玄人にしか分からないから。
『鍾馗』は一神一鬼の舞。神と鬼が一対一で戦う石見神楽の基本形を備えていますが、刀を使った大立ち回りもなければ、面白可笑しい問答など一切ない。一体どこが見所なのか非常に分かり難いのです。
しかしながら、石見神楽を語る上でこんな言葉があります。
「『鍾馗』見ずして、舞を見たと思うなかれ。」
静謐かつ重厚。お囃子は拍動のリズムでどくり、どくりと鳴り響き、大きな神と大きな鬼が舞台を踏み均すかのように対峙します。ライブで言うなら、アコースティックやバラード曲。まさにシンプル・イズ・ベスト。無印良品。
そして、シンプルだからこそ、舞手の技量のみが問われます。
『塵輪』を見れば社中のレベルが分かるけど、底力を量るには『鍾馗』を見ろと神楽通の間で言われる通り、社中屈指の舞手は『鍾馗』か『天神』を任されます。
舞手も囃子もお客さんも、神様さえもが一体となって楽しむ石見神楽の中にあって、ただ一つ、自分と相手のたった二人きりで舞うのが『鍾馗』。他の一切は舞を注視することにのみ、心血を注がなくてはなりません。
このように、神楽の神髄かつ、舞手の力量が試される演目であるため、明け方に『鍾馗』を真剣に見る人はよっぽど神楽の目の肥えた方たちだけでしょう。初めて見る人がつまらないと思うのも当然のことです。
『鍾馗』は、玄人ファンにとっての花形演目なのです。
とはいえですね、この記事読んでる人はおそらく「鍾馗クソネミ」ってスマホで解説探してる方だと思うんだよね!!絶対そうでしょ!!?さっきまでLINEしてたでしょ!?通知きてるよ!!ピローン!!
だから!!私が!!!『鍾馗』を絶ッッッ対面白くしてやる…!!!
とゆことで、レッツ全力で解説&雑学!!!!!
まずは物語の前情報をご説明しなければ。
実は『鍾馗』、日本のお話ではありません。しかも夢オチという展開です。わけわかりませんよね。
この物語の時代背景は、中国の唐。世界三大美女のひとり・楊貴妃を寵愛したことで有名な玄宗皇帝にまつわる故事を下敷きにしています。
その内容は、熱病に魘される玄宗皇帝が「悪事を働く小鬼を厳めしい大鬼が喰う」という謎の夢から覚めるとあら不思議、病はすっかり良くなっていたというベタな話。
石見神楽では、病床の玄宗皇帝が見た夢の中で「病魔の化身である疫神」と「病を払う鍾馗大臣」が戦うという分かりやすい設定に書き換え、その戦いだけにフォーカスを当てるシンプルなストーリーに仕立てています。
またこのことから、病魔退散と病気平癒を祈る大変縁起の良い演目としても有名です。
そしてこの「鍾馗大臣」、なんと『大蛇』の「須佐之男命」と同一人物です。わけわかりませんよね。
このお話では、『天岩戸』で高天原を追われたスサノオは出雲ではなく中国に渡り鍾馗大臣と名を変え、時の皇帝を救ったというパラレルワールドな設定が追加されてます。
なんでこんなタイムリープが発生したかというと、どうも“病を治した”っていう記述がポイントらしい。
歴史の授業で習ったと思うんですけど、平安時代の思想「神仏習合」と「本地垂迹説」って聞いたことないですか?
ざっくり言うと、日本神話の神様たちと仏教説話の仏様たちは超似てるから実は同じなんじゃない?→てことは仏様のJapanese ver.=神様なんじゃね?という割と横暴な理論のことなんですけど、この時スサノオには牛頭天王が割り当てられたことに起因しています。
牛頭天王はかなりパンチのきいた神(?)様で、助けてくれた人は末代まで守るけど、テキトーにあしらったヤツは一族郎党皆殺しにしてやるという二面性を持っています。スサノオもDQNとヒーローの相反する顔を持つため、この二人の神様を一緒にしちゃったわけですね。
牛頭天王には超有名な「蘇民将来伝説」があって、赤絹の房を下げた茅の輪と『蘇民将来之子孫也』と書いた札を門前に飾れば災厄を逃れられると伝えられており、これが「茅の輪くぐり」や「端午の節句」の起源にもなったそうです。また、牛頭天王は疫病を司るため、これを丁重にお祀りすれば蘇民将来のように末代までお守りくださるとされ、厄除けや病魔退散の神様として崇められています*1。
つまり、鍾馗大臣=病気平癒&病魔退散=牛頭天王=スサノオとなったらしい。
こんな感じで、「神仏習合」がさらに「神仏習合」したというカオス状態なんですが、神楽自体は非常にシンプルかつあっさりとまとめられており、その点では理解しやすい演目と言えるでしょう。