【鍾馗後編】Dr.SHOWKI
⇒【前編】はコチラ。
さて、やっと本編を追っていきましょう。ストーリーは「ウィルスvsキラーT細胞」なので単純明快です。
まずは、幕内から煌びやかな衣装をまとった鍾馗大臣が姿を現します。
鍾馗大臣の面は「鍾馗面」といい、『大蛇』の「須佐之男面」とそっくりです。よく見りゃたくましいお顔とお髭が激似ですよね。『大蛇』は日本なので「烏帽子」を、『鍾馗』は中国なので「唐冠」というエビフライの尻尾みたいなお帽子を被っておられます。聖徳太子が被ってるアレですね。
手には「茅の輪」と「十束の宝剣」を握り、衣装はどこもかしこもキラキラで超ド派手。けれどいやらしさは一切なく、威厳と風格、気品をも漂わせています。『鍾馗』の衣装は石見神楽の中で一番豪華と言われており、この豪華な衣装と重厚な舞との絶妙なバランスが見どころの一つ。
神方(神様やヒーロー側)は基本的に鬼と比べて軽めの格好をしており、足元が野球部みたいになってる場合が多いんですが、鍾馗大臣の格好は鬼とほぼ同じです。ここらへんからも『鍾馗』が特別な演目だということがお分かりいただけますかね。
厳かに登場した鍾馗大臣は玄宗皇帝の病を取り除くべく、診察を開始します。
手に持ったでっかいクリスマスリースが「茅の輪」。まわりのクリスマスカラーのヒラヒラは病を焼き払う炎を表しており、真ん中は病巣を見つけ出すスコープの役割を持つ最強最高の武器で縁起物です。(「茅の輪」についてはこちら参照→『天岩戸』)
「茅の輪」を覗いてうんうん頷きながらゆっくり動くのはCTスキャンした映像をじっくり見てる最中だから。鍾馗先生診察中につき、急患以外は声をかけないで下さい。
異常なし、異常なしと画像診断していると何やら黒い影が映ります。「どうやらここらへんが怪しそうだぞ…」といざ病魔の巣食う体内に入るべく、宝剣を逆手、正手に持ちかえつつメスを入れる鍾馗先生。いま手術中のランプが点きました。鍾馗先生、外科医なんですね。金持ちそうです。
神楽囃子をオペ中のBGMに慎重かつ大胆にメスを進めていくと、鍾馗先生の後ろの幕が不自然に揺れだします。中からガラの悪そうな声は聞こえるし、スモークも出てくるし、てゆうか足ちょっと出てるし、怪しいフラグ立ちまくりなので鍾馗先生はさらに慎重に「すり足」で近づいていきます。
この「すり足」は神楽の基本技で片足だけなら鬼がよくしてますよね。神も鬼も両足でするのは『鍾馗』だけのような気がする。「すり足」=『鍾馗』って感じだなー。
一見難しそうな「すり足」ですが、実は少女時代の「Gee」と一緒なのでみなさんぜひお家で練習して下さい!!Aメロのカニ足ダンスと同じように足をハの字→逆ハの字→ハの字→・・・と繰り返すだけ!!超カンタン!!
ちなみに片足のすり足は「Genie」のサビ、『恵比寿』の「首ふり」は「PAPARAZZI」のウララーラーと一緒など少女時代のダンスは神楽と同じ技いっぱい使ってるんですよねー!!ぷりばっこーん!!!
んで、二人楽しくGee Gee Geeしてばっかだと怒られちゃうから、いきなりにゅっと鬼棒が出てきます。…と思ったらまた引っ込んじゃいます。…と思ったらまた出てきたりとあ゛ーーーなんでそこで遊んでんの!!早く出て来いよ!!イライラするーあ゛ーーー!!しかも、普通だったら鬼が姿を現すのを神はじっと待ち構えるものですが、ちょっと!!鍾馗先生、どこ見てるんですか!!うしろにいるよ!!Gee Gee Geeしてんじゃないよ!!
と、このように鬼が出たり引っ込んだり、神が鬼を無視してうんうん言っているのは全部演出です。まんまと踊らされました。踊るがStyleなのに。
『鍾馗』の鬼は疫神=病魔。ウィルスは目に見えませんよね。それは今も昔も同じで、「茅の輪」を通して見ないと疫神は目に映らないのです。だから鍾馗先生は首をひねりながら一生懸命に疫神を探し、それをあざ笑うかのように疫神は姿を捉えさせません。
「鍾馗の鬼は低く舞え」の通りに疫神は見つからないように隠れます。HIDE&SEEKのToday’s night。ちなみに玄人はこのシーンでの幕の使い方を見るらしい*1。
そして、幕から鬼が姿を現します。
が、鍾馗先生は全く気づきません。どんなに疫神が近づいても、どんなに顔と顔とが近づいても、「茅の輪」を通してでなければ見えないのです。二人の距離感がおかしいのはこういう理由です。
ここの表現が『鍾馗』が難しいと呼ばれる所以。鍾馗大臣はじっくりと、疫神はこざかしく。しかし手に汗握る緊迫感と高揚感が場を満たしていなければなりせん。このシーンを解説なしでも理解できるように舞えるかどうかが腕の見せ所です。
緊張がじりじりと登り詰めていき、ついに、疫神の姿を捉えます。
見つかってしまった疫神は先ほどと打って変わり、姿を大きく広げ鍾馗大臣を挑発してきます。
「おお我はこれ。春の疫癘、夏瘧癘。秋の血腹に冬咳病。一切病の司。疫神とは我が事なり。」*2
疫癘(えきれい)とは天然痘、瘧癘(ぎゃくれい)はマラリア、血腹は重篤な下血、そして冬の風邪。全ての病はこの疫神の仕業であると自慢気に言い放つ姿は、先ほどのこざかしく、ちいさな姿からは想像出来ないほどに気味が悪い。
続けて疫神はこうも言います。
「幼きものはかみひしぎ、老いたるものは踏み殺し、また、元気さかんなるものと見るならば、五臓六腑に分け入って、肝のたばねを食いちぎる」と。
病気って本当にそうだな、と、医療が発展した現在でも実感します。縋るような想いで病気を治してくださいと祈ったのは、ここ数年ずっとでしたから。
鍾馗は宝剣を逆手に持ちかえ、疫神と激闘を繰り広げます。
大きく優雅に、かつ力強く大胆に。
一神一鬼の戦いに引き込まれるように立ち上る熱気に、空は段々と白んでゆきます。
そしてやっと疫神の首を捕らえ、茅の輪の中へと押し込めます。が、これがなかなかに死なない。茅の輪で焼き切ろうとも寸でのところですり抜け、鍾馗の背後を小賢しく狙います。病気が目に見えなかった時代に、よくもここまで病の本質を理解していたなと昔の人の観察眼には恐れ入ります。
悪戦苦闘の末、再度茅の輪の中に捕えると、これで逃げられまいと宝剣を突き刺し、ついに疫神を封じ込めました。
暴れ回り、小さくなるもまだ息のある鬼。
とどめとばかりに渾身の力で宝剣を突き立てます。
もはや叶わぬと悟った疫神は、最後の力を振り絞り皇帝の体の内より出て行きました。
鍾馗大臣は見事、疫神を退け、皇帝を病魔より救い出したのです。
・・・いかかがでしたか、『鍾馗』。
物語も、舞も、すべてが重いですよね。好きになれそうですか?
『鍾馗』はなぜこんなにも重いのか。
一神一鬼の戦いだから?しっかり舞わないと神楽が成立しないから?舞手の技量を見せないといけないから?
舞に関することであればいくつでも想像できるでしょう。
でもきっと、そのどれもが違います。
『鍾馗』の重さは、舞手が生み出すものではないからです。
この重みは、何十年、何百年と積み重なってきた人々の祈りだと思います。
だからこそ鍾馗は肩を怒らせて、憤怒の形相で鬼を退治するのです。
この演目は素人が見ても分からないと言いました。
それは単純に舞に関する目が肥えてないから、という意味も含まれますが、この土地に住む人々が何年も何年も、ずっと『鍾馗』に捧げてきた願いを汲み取れないだろうから、というエゴイステックな心情が多分に含まれているからです。
社中で一番上手な人が舞い、一番良い衣装を着て、夜明け前の一番静かな時に舞う。
この祈りが必ず、神様のもとへ届くように。
今年も一年健康に過ごせますように、みんなが無事でありますようにと。
『鍾馗』を本気で見たいのなら、ただ心をかたむけて見れば良いと思うのです。
祈りを込めて見れば、それで。